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vol.18 時の正体
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Nov 2002
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最近同じような夢を見る。
寝ているベッドの中で眼を覚ます夢。
つまり本当に寝ている体勢のままの夢なので、それが夢なのか現実なのかよくわからない。窓の外を見ると大嵐だったり、
無人のはずの階下から物音が聞こえてきて怪しんだりっていう、なんかリアルな夢。
で当然の如く、これは夢か?って疑う。
どこか変だから、きっと夢だって想う。
だけど、ホントに夢?
どこまでが夢?
この1年、ずっと時間との関係について考えてきたのだけど、ついにトンデモないことを想い立った。時は揺れている、
と考えているのだけど、ということは存在そのものが不確実だということ。
つまりヒトとかモノなんか、時の揺れがなければその形は認識できないほど不確定になる。原子や粒子が揺れているからこそ、
観測できるのであって、もし時が止まれば存在も有り得ない。
その逆も真であって、存在があるから時がある。
ということは、存在すなわち時間なので、平たく考えればトキはモノ自体なのではないか。
時間は“存在”そのものである。
哲学的なハナシになりました。
きっと何百年も前から、そんなことは賢者ならずともわかっていたに違いあるまい。
しかし経験から導かれた答の方が、本で読んで知るより納得できるってもの。
そしてこれは新しいことを行うためにも、大切な何かだと想っている。
あらゆるモノ、ヒトでもイヌでもロボットでも道具でも置物でもなんでも、それが時間そのものなので、
時間を掴むことすなわちタイミングを掴むことは、結局モノを掴むこと。いま眼の前にある何か、
そうワープロでも机でも筆記用具でも、何か掴めばそれはタイミングを掴むのと同じだと。
時間は眼に見えない抽象的で掴み所のない観念なんかじゃない。
それは見える・触れる・掴める!
映画のフィルムと同じ、1秒を手の平に載せたりさすったりなでたり、叩いたり投げ付けたり、大事にしたり壊したり…
時間はここにある。
そこにも、あそこにも。
それは眼に見える!
ヴィジュアリストなら当然、気付いていなければならなかった。
なんとしたこと!
時間も宇宙も、あらゆるものが、ここにある。
眼の前の、掴めるところに。
やっと、ここまで来れた。
やっと、見えた。
でも、そこから次はどうすれば -?
何を掴めば?
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