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Essay:Dial M

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Vol.16 大人になるとはどのようなことか

Sep 2002
ホームページを思い切ってリニューアル。
というより、前からこうしたかったという環境がやっと整ったということ。
デザインとかずいぶんサッパリしてしまったでしょう。
自分のしていること、周りで起きていること、とりあえず整理しちゃえっていうプロジェクトなんですよ。
けっきょく色分けっていうシンプルな発想に辿り着いた。
整理ばかりが能ではないと自分の著書に書いたけれど、整理魔だって言ったよね?
整理というのもひとつの創作なんですよ。
それで最近、過去にやってきたことを整理してばかり。
昨年末の『Prints21』から始まって、なんか2002年は大整理の年になっちゃった。過去の作品のDVDが相次いでリリースされます。
特に学生時代に作っていた8mm映画が商品化されるって、恐ろしいことだ。
だって作っていた当時、19歳だよ。
もうヘタなんだから見ないで、って感じ…。
でも考えてみれば、むかしもそれビデオにして自主販売とかやっていたよなあ。
音楽でいえばインディーズから出していた学生のアルバムがメジャーで再リリース、って感じかしら。
たしかに今さら恥ずかしいから出したくないって気持ちもあるのだけど、出しておけばかえって気持ちも吹っ切れる、ひとつのケジメになるって想った。

もちろん過去ばかりじゃなく、先の計画は着々と進行中。
でも想ったようにやるのって、時間かかるんです。
皆さんからよく言われるんですよ。手塚さん、想ったようにやれていいですねって。そんなこと、ないですよー。
後に振り返れば想い通りやってきたのかもしれませんが、決して予定通りってわけじゃない。『白痴』スゴイですね好きなことやってますね、って言われても10年もかかってるし。10年あればもっと他にいろいろ好きなことできたかもしれないよなあ。
今もね、想ったような時間の進み方していないんですよ。
コレ2年前にできていれば、とかもう1年早かったら、なんてしょっちゅう悔やんでいる。
でも自分の心の中に順番というのがあって、こればかりは自分でも覆せない。
次にやる事、その後にやる事、決められている。
気軽に時間を崩せたらいいのだけれど。
でもね、それやっちゃったらカタストロフですよ、きっと。
ホント時間との付き合い方、難しい。
だからね、自分の年齢というのも不確実なモノだって、前にも書きましたけど、いったい“大人”ってなんなの、というのが最近ふと感じている疑問。
大人ってなに?
自分は果たして大人なのか。
19歳のときと比べて、何がどう大人になったのか?
まず間違いないことは、映画を観に行ったりすると、大人料金を取られる。
すると料金が高いのが大人なのか。
ゴダールが『愛の世紀』で大人とは何かと、しつこく問うていた。「いうまでもなく若者と道ですれ違えば、若い連中だと思う。一方、老人の場合は、何よりもまず一人ひとりの老人が目に入る。でも“大人”はあいまいです。ありのままじゃない」

ふつう大人っていえば会社員とか主婦とか、そんな生活のスタイルから想像しちゃいます。会社があって上司のいうことを聞いて、同僚となんとなくうまくやり仕事先と適度に付き合い、バーで酒を飲んでグチッてカラオケ行ってサウナ行って、麻雀やったりゴルフやったり、それが大人だっていう。
家庭があって子供がいて、親の面倒見て。ローンの返済にアタマ悩まし、家族サービスに疲れ、休日には車洗って犬の散歩に行って、子供連れて公園デビューして。
つまり社会性とやらをわかっているフリをしてっていう。
それが大人。
ホントかい?
たしかにココロの基本は、自分のことばかりじゃなく、周囲や他人のことを自然に考えて気を遣えるのが大人、って感じです。
ホラ子供って、自分勝手でしょ。
他人の気持ちまで想像が及ばない。自分中心。
だから子供なんです。
大人の姿していても、大人としての基本ができていない人は多いよね。
中途半端な大人ってのは、自分のごく周囲だけに気を配る。家族や会社や、同族のことばかり。その先の責任考えないものね。
お酒や葉巻の銘柄に詳しいとか、ギャンブルに長けているとか女を何人知っているとかどれだけ遊んだかっていうことが大人の証しじゃない。
得意先と馴れ合ってうまく付き合い、家族に隠しているヒミツがいくつあるとか、そんなことは関係ない。
本物の大人って、もう国とか民族とかそんな話じゃなくて、人間としてどうかって話がちゃんとできて、発言に責任を持てるような人のことでしょう。
経済や主義主張の話をするときも、誰がどう儲かって得をしてって話じゃなくて、誰が困っていてどうすればよいか、ってことを想像できる人が大人だと想うな。
家族と話すときでも、親だから子供だからってことじゃなくて、人間同士として自然な会話が成立する。
それが態度に表明できる人。
現実にいるのか、そんな人は?
だから大人って、永遠に幻想かもしれないね。
幻想に大人料金がついているんだね。
どうせ幻想というのなら、もっと上の大人を考えてみる。
地球的な大人となれば、人間のことばかりじゃなくて、生き物や自然のことも含めて考えて気を遣い、その中で自分の立場をきちんと表明できる人。だからって他人をいたずらに批判するんじゃなくて。
宇宙的な大人ってことになると、こりゃ壮大な話だが、もう人間というレベルを超えて存在や時間や魂で話ができる人。
なおかつそこで自分勝手に偏らず、宇宙的とはいえない相手の気持ちも分かってあげなくちゃいけないという、タイヘンなことが自然にサラッとできてしまう人かな。
で微妙なのは、わかっていてもわからぬふりしたり、わかっているけどできないっていう立場の人で、一番やっかいなのは“大人の恋愛”って呼ばれるやつ。
そんなもの、あるのか?
恋愛って本質的に子供っぽいと想うのよ。
自分たちのことや、自分のことばかりになるでしょう?
相手本位の恋愛なんて、恋愛じゃないよね。
それは、ただの愛。
もちろんそっちの方が大事とは想うけど。
“大人の愛情”と恋愛はチガウ。
ということは、大人になるって、恋愛がなくなることを意味する?
それ、なんか悲しい。
でもね大人の愛って、もうすでに恋愛じゃあないんで、もっと本質的に相手や周囲やモノを大切にする気持ちであって、家庭があるのに浮気に走って隠れて逢引して別れるの別れないの、それが大人の恋愛だっていうなら嘘っぱち。
大人には恋愛はないので、恋愛しているうちは大人ではなくて、だから子供だって開き直るのも忍びない場合はどういえばよいか。
青年。
これこれ。
気恥ずかしい単語だが、モノを創る人間なんて永遠に青二才、青年で、決して大人にはなってたまるものか、という気構えがあるんですよ。
あー、島田雅彦くんがかつて“青二才宣言”していたなぁ。
映画なんて永遠の恋愛、もう片想いの連続で、だから我を忘れてのめり込むのであって、さもなきゃ何年もかけて何億円も使って映画なんか作らない。
ぼくが実はかなり大人だったかもしれない17歳のときに、「青春とはファンタスティックなパーティである」という醒めたコピーで処女作を創ってしまったのもそういうわけで、一生ファンタスティックなパーティを繰り広げて行こうと。
だから、それから青年のまま。
子供、大人、老人。
ホントはそこにもうひとつ「青年」が加わらなくちゃならない。
あるいはそれらから離れた、別の次元の中に。

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