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Essay:Dial M

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Vol.12 偶然クマに遭ったなら

May 2002
『クマにあったらどうするか』という本を読んだ。
姉崎等さんという、アイヌの狩人との対話集。(木楽舎刊)
クマにあったらどうするか、死んだふりなのか何がいいのか、それは読んでいただくとして、
興味深かったのは、野生のクマは人間の性質を昔から知っている、という話かな。
科学的なハナシじゃない。
クマ撃ち何十年のプロが、体験から感じたことだ。
彼のココロが知っていたこと。
クマに限らず、野生の動物は人間を恐れている。
それは、人間が昔からどんなトンデモナイことを彼らになしてきたか、熟知しているからだという。
彼らの遺伝子に刷り込まれていることなのか。
だから人里のすぐそばでも、人眼に触れぬように生き、人の姿を見れば逃げる。
その一方で、彼らもまた、人間の存在に無関心ではいられない。
クマだってカラスだって、ヒトの生活の恩恵を少なからず受けている。
ヒトが捨てたモノを食べたりしているから。
それがいいとか悪いとか、ヒトの道徳に照らしていうつもりはないけれど、
少なくともそこには接点があり、"カンケイ"が生まれている。
野生の動物は決してヒトに慣れるということはない。
かといって、無視もしていない。
なぜなら、存在そのものの関係性を知っているから。
もしかしたら、動物たちは、人間が地球に対して何をしでかしたか、という悪業だけではなく、
いかにしてそれに気付き、関係性を持ち直そうとしているか、わかっているのではあるまいか。
その一方で、滅んでゆくものたちは、滅んでゆくことをも、内心知っているのではないだろうか。
動物は、決してヒトを責めたりはしない。
ヒトはそのことを知っていなければならないと想う。
連休中に、珍しく変わった夢を見た。
いつもは日常的な仕事の夢ばかり見るんですよ。
仕事に行ってミーティングしたり、トラブルで青くなったりっていう、夢のない夢。
その日の夢も最初はそうでした。
ミュージシャンの恒松正敏さんとデザイナーの立花ハジメさんとぼくの三人で、
なぜか真夜中すぎに対談するって雑誌の仕事で、しかも対談場所が吉祥寺かどこかの店で、
そこが使えるまで45分待てと外でいわれる。
そのうち雰囲気が変わって、中国の物語が始まっちゃった。
中国の市場で、小さな屋台で塩を売っている王という名前の物売りの男がいました。
(王さんってウチのデザイナーの名前だけれど、それはカンケイないと見た)
そこへ日本人の青年が、良い塩を探しに来るのですが、王さんはズルイ上に面倒臭がりなものだから、
あれこれいい加減な説明でお茶をにごし、良い塩を売ってくれない。
実は青年には、身体の悪い家族がいて、そのために良い塩が必要なのデシタ。
青年は長く粘ったのだけれど、王さんの話があまりにラチが明かないので、とうとうあきらめて、その店を立ち去るんですね。
王さんはあわてて、商売道具もそのままに、青年の後を追って走るんです。
けっきょく青年は掴まらず、王さんがしょんぼりと屋台へ戻ってくると、隣の屋台の老人がその様子を見て、こう語りかけました。
「王さんは、いいものを手に入れたね」
王さんは自分の屋台を見回しますが、何も増えたものはない。
すると老人「あんたは、商売道具も売り物も放ったらかしたまま、あの可哀相な青年の後を一生懸命追ったでしょう。王さんは、慈悲の心というものを手に入れたのですよ」

そこで眼が覚めた。
へーんな、夢!
作ったみたいだけど、ホントにこの通りの夢だったんですよ。
どういうハナシですか、コレは?

ぼくがずっと手に入れたがっている、タイミングの掴み方。
恐らくそのための方法は、アタマよりココロの使い方なのでしょう。
どんなココロをどう使えばよいのか、まだハッキリわかりませんけれども。
慈悲の心で時間が掴めるとも思いがたいが…。
しかしまあ、一見関係なさそうなモノほど、実はウラの時間で繋がっているカモしれないし、
何事も気に留めておくことは肝心ですね。
無関係というカンケイは、実は相当、クセモノですよ。
だからね、ぼくは虫一匹だって見逃したくはない。
ホラ、虫の知らせっていうじゃないですか、昔から。
最近、小さな虫が飛んで来て、身の回りによく止まるんですよ。こっち向いて。
いったい何を伝えに来ているのか。
虫たちの言葉がわかれば…。

今、想いついた関係性を式にしてみました。

関係 = 接点 × タイミング

関係の大きさは、実際の因果関係がどうであれ、接点とタイミングで計れる。
"たまたま"何度も出会ってしまう相手は、誰であれ、どんな理由であれ、関係性が大きい。
そうそう、先月のハナシの"後日談"。
けっきょくその後、窪塚洋介くんと、出会ったのですよ。
それも仕事ヌキのプライベート・タイムに他人の家で。
彼はそのあと撮影を控えていたから、ゆっくり語り合う時間はなかったけれど、思ったより早く出会えたのにはビックリ。
理由はわからないけど遭えてよかった、ってホッとした顔になった。お互いに。
きっと、またどこかで遭うのでしょう。
後日談パート2をお楽しみに。
ぜんぜんハナシ変わって、今年は映画をなるべく観ようと想っているんですね。
実は、年始に誓いを立てた。
年間100本目標。
もちろんビデオやDVDではなくて、劇場のスクリーンで。
ぼくにとっては、劇場とスクリーンがあってはじめて"映画"なんですよ。
もし100本劇場で観るとして、1本1800円だから、18万円。
あ、パンフレットも買うから、平均600円として、6万円。
合計24万円かぁ。
1本1時間30分の上映時間と考えれば、ぜんぶ観て150時間。
1週間ぐらい海外旅行ゆくつもりで映画観るって感じですね。

最近観た映画で印象的だったのは、『マルホランド・ドライブ』と『愛の世紀』かな。
どちらもその演出にうっとり、憧れてしまう。
ふたりとも十分巧いのに、つっぱっている。
デビッド・リンチも、ゴダールも、つっぱり方がちっとも変わってない。
その変わらなさがいいな、と最近想うようになってきた。
もちろん映画としては円熟してきているとは想うんですが、コチラの眼も肥えてきているから、けっきょく変わらなく見えちゃう。
少し前だけど、ダリオ・アルジェントの新作も観たんですね。
『スリープレス』ってスリラー。原題が"NONHOSONNO"。
これがまた、メチャメチャ変わってないの。
まさに『プロフォンド・ロッソ(サスペリア2)』の頃の感じ。
相変わらずB級で、脚本は甘く、残酷描写はしつこく節操なく、女性はみんな美しく…。
どこを取っても"アルジェント節"。
しかも音楽がひさしぶりのゴブリン!
なんか、嬉しくなってしまって。

アルジェント監督はかつて「自分もゴダールのように映画評論からスタートしたんだよ」 っていっていたけど、
このふたりでは比較のしようがない。
ぼくはだいたい個性的な映画が好きなんだけれど、ゴダールは、やっぱりいいな。
この個性は強力。
ぼくは小難しい理論は得意じゃないけど、彼の映画はいつも素直に観られる。
50年代のゴダールは自分にとってリアル・タイムではないから、むしろ80年代以降の作品が、けっこういいと想っていて。
『愛の世紀』はひさしぶりに強い勢いがあって、魅きつけられた。
う~ん、コレはどういうことかって、アタマで整理つく前に、ココロが気に入ってしまったみたい。
映画館を出て、すぐ、また観たくなっちゃった。
『マルホランド・ドライブ』をまた観るかと思いきや、『愛の世紀』を3回も観てしまう。
観るたびに違うモノがみえてくる。
1度めより、2度めがいい。3度めはさらに感動する。
きっと観れば観るほどスキになってゆきそうだから、このへんでやめとこう。
キリがないし、関係に一線を引いておくのも大切だしね。
詩人のように、流暢にことばと時間を操るゴダール。
相変わらず、ことば、コトバ、言葉の洪水で、物語はよそよそしく、登場人物は操り人形みたいで、
どこか手作りっぽくて、でも映像と音楽はもう極上に美しい、ゴダール節。
アレコレことばを並べながらも、けっきょく一生懸命に、言葉を超えた何かを探している感じ。
(は、コーエン兄弟の『バーバー』の逆か)
その姿勢が微笑ましい、と想ってしまった。
「実験映画というより、探求映画だ」って感想は、
ぼくの『実験映画』を観た評論家トニー・レインズ氏の言葉だけれど、ゴダールこそ探求映画の見本だと想う。
映画って何だろう、映画と自分と世界と時間のカンケイは… という永遠の主題。
永遠の映画青年。
そして映画つっぱり。
だから親しみを感じるのかな。
あと、些細なことだけど、サントラでECM(*)の音楽を使ってるでしょ。
ケティル・ビヨルンスタとデビッド・ダーリング。
ECMはぼくも好きなレーベルで、ふと考えれば70年代から聴いている。
D.ダーリングは『実験映画』を編集しながらずっと聴いていた。
スティーブ・キューンとやっていたアルバムとか、すごく好き。
まさかゴダールの映画でそのチェロの音が聴けるなんて、なんか嬉しかったな。
ミーハーな感想で申し訳ないんですが。

その一方で、『ET』もひさしぶりに観ましたよ。
最初に観た時ほど泣かなかったけど、やっぱり『A.I.』よりいいな。
スピルバーグも、変わってほしくない。
無理に大人びた映画やスゴイ大作ばかり作らなくても、子供の出てくる誰も死なない、
小さくてカワイイ映画もたまにはやってほしい。
『愛の世紀』の中で、メチャクチャに非難されていたスピルバーグだけど、
ぼくはスピルバーグとゴダールがどっちもスキという、やや珍しい映画ファンです。
映画にとって、どちらも必要だな、と素直に想う。
でも、彼らの映画が両極端と想いたくない。
変わらないことがマイペースなのか、変わってゆくこともそのヒトのペースなのか。
何年も経って、「変わっていない」自分にホッとするのか、ショックを受けるのか。
たぶん、おそらく、きっと、ぼくも変わらないのだろうと想う。

(*) ECMはドイツにあるジャズとクラシックのレーベル。
マンフレッド・アイヒャーがひとりですべてのアルバムをプロデュースしていて、
数十年間まったく変わらないそのセンスの高さと力量はスゴイ、見事。
キース・ジャレット、チック・コリアら、才能あるミュージシャンがここで個性を磨いた。

そうそう、映画じゃないけど、ブライアン・フェリーの新譜『フランティック』を聴いたんですが、
これがマタ、どこを聴いてもロキシー・ミュージック!って感じで、ムカシのノリで、ムカシの音で、ヨカッタ。
しかもブライアン・イーノが参加している!
こんなことで浮き足立つのは、ただのニューウェーブ・ミーハーだ…。
イーノと共作の1曲がラスト・ナンバーなのだけれど、ホントいい曲。
どこか、ムカシのULTRAVOX!を想わせるような。
ジョン・フォックスの『MY SEX』のような節回し。
そうか、あれもイーノがプロデュースした曲だっけ。
ほかにも"ヒロシマ・モナムール"って曲があったり(もちろんULTRAVOX!の名曲と同名、
アラン・レネの『24時間の情時』の原題)して、フェリーとフォックスがダブってくる。
そうそう、少し前にジョン・フォックスも新譜を出したんですよ。
『THE PLEASURES OF ELECTRICITY』っていう。
電気の快楽。
これも嬉しい電気ショック。
彼はホントに変わっていない。   
80年代初期のシンプルなテクノのまま。   
『UNDERPASS』と『SYSTEMS OF ROMANCE』のメロディを無理やりくっつけて新曲にしていたり。   
ななななななつかしすぎる!   
彼はいまや希少価値ともいえるアーティストだけれど、一時はミケランジェロ・アントニオーニの映画の
サントラも手伝っていたですよ。   
『ある女の存在証明』って映画で、女優を探している映画監督が、偶然に出会った女性を追ってゆくという、
ゴダールの新作ともなんかダブる話。   
アントニオーニとゴダール。   
かたやジョン・フォックスで、かたやECM。   
フシギとアタマの中で繋がってゆく"関係のない"ものごと。   
そして、関係ないモノ同士が出会うことで生まれる新しいカンケイのカタチ。

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