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Vol.9 ぼくは何歳?
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Jan 2002
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そのイメージから何やら期待度高かった2001年は、フタを開けてみたら混沌・混乱・コンサバに終始していた感。
ただし確実に未来に向けての準備が進んでゆく肌触りは感じて、自分の周囲を見ても、
堅実なヒトはゆっくりだけど確実なベースが築けてゆく様子。
サテ2002年です。
前にもいったとおり、今年は"モノつくり"の年にします。
なるべくカタチになる"モノ"ね。
といってもマイペースなのだろうけど。
マイペースってのは大事なんだけど、ハテ、自分のペースってどんなの?
と考えていたら、ふだんから想っていることだけど、年齢って実際の時間と関係ないな ーって。
1年経ったから1歳年をとり、そのぶん育つというのは幻想。
いくつまでが子供で、いつから大人で、もうこの齢だからとかなんとか、そんなことは実はヒトの本質とあまり関係ない。
生まれつき大人のココロを持ったヒトもおれば、死ぬまで子供というヒトもいる。
それは環境や育ち方が後天的に作用することもあると想うけど、むしろ先天的なそのヒトのココロそのもののカタチなのかな、と。
ぼくの場合、昔から"年齢不詳"って言われてきました。
ただ若い、とかいうんじゃなくて、若いのか歳とってるのかワカラン、と。
そういえば18歳のときに取材を受けて、たしか年上の女性のインタビュアーだったと思うけど、
「お年は?」って尋ねられたので「ハア、…8です」ってあいまいに答えたら「28歳ですか?」って。
「いえ、違います」って言うと、さらにビックリして「エッ、38??」 って、んなワケないだろう。
最初から"監督"やっていたから、そんな風に見えていたのかもしれませんね。
老成してた、というかナマイキだった。
でも、いま昔の写真とか見ると、さすがに「若かった…」って自分でも想う。
ホンの10年前の写真でも若い。
ってことはやっぱり歳とったのか?
しょうがないよね、肉体は歳とるデスよ。
でも、ココロはまた別。
アタマとも別。
アタマはね、やっぱり肉体に追従しているところがあるから年齢相応ってモノがある。
学習して、経験値がモノをいう。
たとえば「人にやさしい」なんていうのもアタマの部分とココロの部分があって、
いろいろ社会やヒトを見てきた経験として「やっぱり人にはやさしくしなきゃ」っていうのはアタマのやさしさなんですね。
つまりは勉強できること。
だけど勉強しなくったって、何も見なくたって最初からその人に備わっているやさしさもあるように想う。
そういうヒトはそれこそマイペースでやさしいので、まわりに捕らわれ過ぎるとかえって逆を学んで、
やさしくないフリをするようになる。
ぼくは、ココロって歳とらないんじゃないかな、って想うんです。
生まれつき変わらない。
イヤ、もっと別の次元ではココロの成長ってあると想うけれど、それはうんと時間がかかることで、
ひと人生でやっとワン・ステップ。ちょっぴりとか。
いつも時間のことを考えているんですけど、時間は絶対で、
この世のすべてをコントロールしているように見えるのは実は幻想かもしれない。
というより狭い見方の中ではたしかにそうだと想うんですが、案外、時間から外れた世界は大きく広がっているんじゃないかと。
よく"アタマの中"って言いますけれど、アタマは結局コンピューターのようなもので、
やっぱり時間と折り合いながら作用しているわけです。
一方、ココロは時間とは別のベクトルというか、別の展開を持っているわけで、それは1万年前でも1万年後でも関係ない。
いや、1万年前でも1万年後でもある。
ここでモンダイは、ひとつの現象を生み出すのに肉体的・物理的・時間的なアタマと超存在的ココロが共同作業をする、 その接点を持たねばならないわけで、この接点をうまく保つ方法こそが"生きる"ということかなと。
だからこの世は「接点」です。
それを"運"とか"縁"とか"タイミング"というコトバで言うヒトもいる。
だいたい時間的系列の中で、アタマを使って"タイミング"を計るヒトが多いんですけれど、
きっと本当はココロがいつも眼を光らせている。
そしてココロの観察はいつも鋭く、いつも正確。
というより、三角と四角を見間違わないぐらいのことだろうけど。
その結果をアタマで考える時、"偶然"とか"直感"という単語になってしまう。
ぼくはアタマも使っているけど、たぶん同じくらいココロが横目で見ていて、だからたくさんの偶然が起きて、
自分を引っぱっていってくれる。
そんなココロが歳とらないのだから、きっと年齢不詳な印象があるのだろうねえ。
ところでココロも疲れるということがあります。
そうなると、もうどんどん接点がうまく取れなくなってしまう。
これはヒドイですよ。
ふだんココロで生きているワタシのような人間は、アタマだけでは生きられない。
運が悪くなり、縁がワヤくちゃになり、タイミングがズレる。
そうしてアタマが考えれば考えるほどドツボにはまる。
モノは落す、壊す、何かやろうとすれば失敗し、右に行けば間違い、左を選ぶと後悔する、といった悲劇が連続してしまうのです。
アタマの時間とココロの宇宙の接点は、かくも微妙精緻なるものかと、どん底気分に浸りながらシミジミ感心する羽目になります。
そんなときはマァいいや、ひと休みするか…って、マイペースという便利な単語を引っ張り出し掲げて、他人の心配を尻目にのーんびりしてしまうのだ。
だからマイペースってキライだ。
マイペースになってしまう自分もイヤだ。本当は、マイペースでなくがんばりたいと想ってしまう。
そう言いつつ、ホンネは掴みたい、自分のペース。
自分の時間。
時間を掴んでみたい。
でも、どうやって?
いやいや、毎月エッセイのはずが、遅れに遅れて…。
でも上の文章、書いたの確かに1月なの。
ただアップが遅れただけ。
いんじゃないですか、マイペースで、いまが1月だと想えば…。
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