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Essay:Dial M

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Vol.4 情報が多すぎる!

Jun 2001
フランスで『白痴』の劇場公開があって、それに併せてパリへプロモーションに出かける予定が急にキャンセル。
そのかわりミラノに行くことになった。
そういえば映画祭の時も、カンヌには行けずヴェネチアへ。
フランスよりイタリアに縁があるのでしょうか。  
ぼくの短編実験映画を観た人たちは、日本よりヨーロッパの方がウケるんじゃない?
なんてお気楽にいっていたけれど、きっとフランスよりイギリスより、イタリアの感性に 合っているのかも。
考え方とか、色使いとか、映像の質感が。  
ミラノは世界に名だたるファッションの街。駅前に巨大な針と糸のオブジェができて、ますますその自覚も確固たるものに。
今回はテレビの取材でミラノ・ファッションのリポートをしたのだけれど、それで感じたパリとミラノの差は、つまりパリが本当に流行や新しさってものに敏感だとしたら、ミ ラノは伝統や歴史をどう守るか、どう残してゆくかということにとても繊細。
もちろん、 伝統にも流行にも「質」が伴わなくちゃならない。
ファッションもそうだけど、イタリアのアートは伝統の土台の上にしっかり築かれている。
逆にいえば、まったく違うフィールドから飛び抜けたモノが突然変異のように生まれにくい風土かも。
人間関係も、仲間や家 族といった絆をとても大切にするしね。  
ここでダ・ヴィンチの『最期の晩餐』の実物をやっと見ることができた。
ちょうど修復 が終わったところかな。以前より鮮やかな色が再現されているようだ。  
この古典名作はいつも映画の中でパロディにしていたけれど、実物を見ればやっぱり背筋に涙が流れてしまう。
とても美しいから。

久し振りに訪れたイタリアでやはり感じたのは、みんながアートを大事に思っているってこと。
町並みひとつ取っても、マクドナルドでさえ容赦ない。町の景観を損ねる看板は許されないという法律がある。
だからマックすらいつもの看板は降ろして、街に合わせたシックな店構え。
でもそれって大事なことだよね。視覚的な調和って。  
自分に関することで言えば、たとえば食事のためにレストランへ行くでしょ。
黙ってい ると、まあまあ日本人の観光客って扱いなのだけれど、ひとたび映画監督ってことがわかると、
たちまち店員の態度が一変するのね。
もてなし方が変わるっていうか、当店にいらしていただけて光栄ですって態度になる。
裏通りの小さな店なんかでも、店員が「一緒に 写真撮っていいですか?」って寄ってくる。
たしかにイタリアの人は人なつっこいけれど。  
日本じゃ、そんなことないよ。  日本の場合、有名人には弱いかもしれないけど、例えば名も知られていないヨーロッパ の若い映画監督がレストランに行って、どの店員が態度を変えますか? 
「あなたの映画 の題名を教えてください。この国で上映はありますか? きっと観に行きます」なんて言いますか?
日本では有名であるかどうかが問題で、映画を監督しているということはどうでもいいことなんですよね。
映画イコール芸能界イコール・テレビなんだけど、決して映画イコー ルアート・イコール文化ではないわけですよ。
これはレストランだけではなくて、イタリアではどこに行っても同じ。たとえプライド 高いファッションの一流ブランド店でも。
ヨーロッパではこのところずっと日本ブームなんだけど、特に若い人々は日本の映画や カルチャーにとても興味を持ってる。
映画人とわかると、みんな「キタノ・タケシはいいよね」なんて話しかけてくる。
ムッツリした職人のオジサンでさえ「君の映画が今度ヴェ ネチアで上映されるときは教えてくれ。仕事を離れて観にゆくよ」なんて言ってくれる。
社交辞令かもしれないけども、こんなこと日本じゃ言われないから、やっぱりウレシイ。
ヨーロッパでは、アーティストって人々に大切にされている。何も一部の評論家やマス コミ人だけじゃなく、みんなが自然に興味を持っている。というのは、アートは特殊なものではなくて、生活の中で大切で、それが基本だと思っているから。
ぼくが「ヴィジュアリスト」ではなくて「映画監督」って自信を持って言うのは、だから日本を離れた時。悲しいことにね。

さて、いつものように日本へ帰って来て、成田に到着するや否や、情報の洪水です。
ひどい。あまりにヒドイ。  
どうして日本はこんなに景観が汚いのか。  
それは情報が多すぎるからです。  
あっちにもこっちにも看板だらけ、文字だらけ。  
例えばひとつの店に、看板はひとつで十分ですよ。ところが目立とうとしているのか何 なのか、いくつもいくつも看板を出して、張り紙やら掲示やら、もうグシャグシャ。  
街の到るところに情報だらけ。まったく調和も統一感もない、それらの看板が発してい るメッセージはただひとつ、「金くれ」。
悲しい。  これが先進国の姿なのだろうか?  
そして、そんな情報の中にゴミのような人々が集まっている。
いつも海外から戻ってくると、申し訳ないけど、日本はゴミが多すぎる、と冷酷に思ってしまう。
ゴミのような街にゴミのような情報、そこに生きる人間はゴミ虫同然。
なぜこの国は、景観を調和させようとしないのか。なぜ美しさを求めないのか。
なぜ、 伝統や歴史を切り捨てるのか。なぜ、シンプルであることを恐れるのか。
なぜ、アートを特別なものにして、生活と切り離しているのか…。  
でも悲しいことに、どんなに汚いゴミ箱でも、ぼくはここで生まれて育ったんだから、 ここに住む。
空気は汚い、街は醜い、社会はグチャグチャ、人々はゴミのようでも、ここで生きてゆく。  
だって見放せないし、ここが好きだから。日本が、東京が好きだから。
世界の中でも、ここが大切だから。
だから身の回りの、ひとつずつでも整理して、1ミリずつでも、きれいにしよう。
ほん のわずかでも、きれいな国にしたいから。自分のふるさとだから。これでも世界の先端だ から。

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