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Vol.3 貴公子がいっぱい
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May 2001
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各界にはつい「貴公子」と呼ばれてしまう拝がおります。
たとえば「料理界の貴公子」とか「テニス界の貴公子」とか。
落語界の貴公子といえば、柳家花緑さん。人間国宝小さん師匠のお孫さんという筋金入りです。
その花緑さんと寄席の舞台で対談という、とんでもない企画に乗ってしまった。
寄席といえばアナタ、お客は誰しも笑う目的でそこに来ているのですよ。
そこへですよ、たとえトークゲストといえども出て行くからには笑いのひとつも取らなきゃ覚悟ができない。
まともに考えればアレコレ考えてネタを仕込むところでしょうが、そうはしない。
ハナからプロのハナシ家になるつもりなんかサラサラないのですから、ここは出たとこ勝負。
出たとこ勝負というのは、別名成り行きまかせともいいますがこれはこれで高度な技術が必要になるのですよ。
その場その場で適当に話の流れを作りつつ、そこに前後の脈略、筋道を付けてゆく。
緊張しつつリラックスするという、それを一度に行うアタマの技術であります。
精度の 高い構築とだらしなさを同時に行う、危険な技なのです。
しかもこれは、相手も間合いが取りにくくなる恐れもあり、ダメージが大きい。
そこはさすが花緑さん。受けに回りつつしっかりウケて、十分笑いを取った後にトリは 人情話で落とす。
直感の鋭いお方であります。
次に出会った貴公子は東儀秀樹さん。いわずと知れた雅楽界の貴公子であります。
しかし残念なことに、同じステージを踏みながら、こちらは対談というわけにはいかずに握手のみ。
出身校は同じなんですけどね。
ポップス界の貴公子というと失礼かもしれませんが、石井竜也さんはどう見ても貴公子 的雰囲気がお似合いのお方。
テレビのトーク番組、いきなり本番でお会いしました。
石井さんとは奇妙な縁で、これまで一度も出会っていないのがフシギなくらいなのですが、共通の知り合いは多数いる様子。
たまたま共通の知人と石井さんの話題で盛り上がった翌日にその番組からの出演依頼。
偶然ですが、できすぎな感じ。
しかもその番組の打合わせで「もしかすると石井さんは会話を盗み聞きしてるんじゃないですかね」なんて冗談を言っていたら、その最中にまたも石井さんと共演の仕事の依頼
が…。
石井さんたら、ホントに地獄耳なんだから。
ワタシの場合は貴公子というより奇行子。別名ヴィジュアリスト。
辺境をウロウロ奇行していると、思わずホンモノの貴公子に出会うことは多い。
縁というのはフシギなもので、ともすれば自分で繋ぐことができる。これも技ではあり ますが。
出会いを紡ぐと場ができる。場がヒトを生む。ヒト、作品を生む。作品とはワク のこと。時間のこと。まあいいか。
辺境ではない世間一般では、ヴィジュアリスト手塚について、三つの誤解があるようです。
マルチ・アーティストのように思っている輩が多いのですが、とんでもない。
ぼくはマルチはキライです。
マルチというのは、人間の弱さだから。
なんでもやれちゃうのというのは、何もできないと等しい。
ぼくがやりたいのは映画だけなんですね。
実はいつも映画のことしかアタマにない。
だけれども、日々の暮らしではチャンス(偶然)というものに従順なのですよ。
だから映画以外の仕事に巡り合うと、これもえにし(縁)と思って飛び込む。
映像以外にこれまでやってきた仕事をジャンル名で呼ぶならば、フリーライター、エッセイスト イラストレイター、俳優、タレント、司会者、レポーター、ヴォーカリスト、パフォーマー、
作詞家、小説家、建築家、デザイナー、プランナー、プロデューサー、プロモーター、 キュレーター、マネージャー、エトセトラ。
そうそう、社長業もやってるんだっけ。
よくこんなにイロイロやってるよなあ。「この道一筋」っていうヒトには嫌われそうですね。
でも何をやってもヴィジュアリスト一筋。
ヴィジュアリストのようにしかできないんですよ。その道の職人のようにはできないんですね。
よく「手塚さん、次は何をやるんですか?」って面白そうに尋ねられるんですけれど、 ぼくには「映画」としか答えられない。
いろいろやりたいわけじゃないんです。
でもイロイロやってくるんですよ。
そんなイロイロに付き合ってあげたい、と思うから、やってしまうんですけど。
頼まれてしまうと、引き受けてしまうんだな。
(これを世間ではお人好しといいます。)
二番目の誤解は、最新テクノロジーに長けているというイメージ。
さんざん言ってますけど、パソコン、まるでダメ。
だからメール受け取れないし、インターネットもほとんど利用していない。デジカメすら持っていない。
理由は単純で、ホントに便利ではないから。
ぼくには僕のリズムってモノがあるんですね。
他人と相容れないとしても、ぼくのリズム(波動)はぼくにとって大事です。
パソコンはその名の通り、パーソナルなモノでなければならないのに、このリズムに合わせられない。
そもそもそれがモンダイ。
たとえば僕がチャカチャカッてキーボードを打つでしょ。
するとパソコンはそのリズムについて来られなくて、すぐトラブルに陥る。
これじゃダメです。 人間の方がずっと優秀で、ずっとマシ。 ぼくの周りには、ぼくの心の動きを敏感に感じ取ってくれる素敵なスタッフがいます。
キーボードなんて打つまでもなく、フッと顔を向けるだけで、あるいは部屋に入っただけ で、ぼくの気を察して対応してくれる。
だからぼくはパソコンと付き合うよりそんな素敵な人たちと付き合う方が楽しいし、充実するのですよ。
厳しいことを言うようですけど、気を受け止めないハードなんて、ゴミと同じなんです。
三つめの誤解は、ぼくが気難しいアーティストだという説。
ぼくはアーティストではないのですよ。
ぼくはヴィジュアリストだから。
気難しいアーティストが、前に挙げたような多彩な仕事をこなすと思いますか?
申し訳ないんですけど、ぼくは仕事で頼まれたものを、自分の作品にしようという気はまるでないのです。
自分と仕事との間に距離を持っています。
なぜならぼく自身というモノは、仕事にするには純粋すぎるし、難しすぎるから。
中庸ってものは、ヒトにとってはとても大事なんですね。
真ん中ぐらいって、大切なコトだと思います。
ぼく、極端なんです。
中庸を受け止められない。
最低か最高しか見ていない。
それが自分の弱点でもありますけど。
ぼくの中にはシロとクロしかないんです。
しかもシロとクロが同時にある。
それがヴィジュアリスト。
別名、奇行士。
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