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Essay:Dial M

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Vol.2 DAWN OF THE ROBOT

Feb 2001
荷物を取りにくるはずの集配人が、予定した時刻にオフィスに現れない。  
おかしーなーと思っているところへ当の本人より電話。  
マンションの2-Dを、2-Bと間違えていたらしい。    
しかし、小さなマンションだし、同じ棟のすぐ隣だよ?    
ちょっと探せば気が付くと思うんだけどねえ。    
応用がきかない。  
まるでデキの悪いロボットみたいな奴! と思わず言っちゃいましたね。    

21世紀を迎えたとたんにマスコミはロボットづくしです。  
その気持ち、わからなくもない。  
暦の大きなケジメなのに、世の中は鬱々としているではないですか。  
新しい価値観の結果を具体的に見たいというキモチが起きているのと、未来に対する獏然とした期待値が高まって、たまたまロボットというカタチが注目されたわけです。
ぼくのところにも次々と取材が来る。    
しかし、いくら『鉄腕アトム』の作者の息子だからって、ロボット研究家でも技術者でもないヴィジュアリストの意見そんなに求めてもねえ。
ちなみに「ヴィジュアリストって何?」と、いまでもよく聞かれます。  
こりゃ一生、聞かれ続けるのでしょう。    
なぞなぞみたいな肩書きですよね。オモシロイけど面倒ではある。  
かつては無理して「視覚主義者」なんて説明していたのだけれど、最近はもう「夢想家」 という感じ。
案外、外れていないかも。  
夢想家だから、ロボットについて想うところあっても許してもらえるかしら。

ぼくにロボットについての取材がくる理由のひとつは、昨年横浜で開催されたロボットの某イベントにアドバイザーとして名を連ねたから。
なんでも大変な動員があったそうで、その模様は海外でも紹介されたらしい。
でもぼくはアドバイザーというより、ほとんど宣伝要員という感じだったな。
ロボット はおろか、イベントそのものにも、何のアドバイスもさせてもらってないもの。
きっとそれって「手塚治虫の家族のお墨付きが欲しい」ってだけなんですよね。
それが証拠にというとナンですが、やたらに取材はあるものの、肝心のロボット開発者や企業からはなーんにも声がかかりません。
夢想家の意見じゃ、役に立たないですかね。  
でも、これでもワタシ、以前に『TEO~もうひとつの地球』というソフトのプロデューサーをやってたんです。
これはいわゆる人工知能(AI)だか人工生命(AL)だかを 応用した疑似生命コミュニケーション体験ソフト(なんだよソレ)で、わかりやすくいえ ばソニーのAIBOをパソコン上で楽しむ感じ。
これは「ペットじゃない」というのがウリで、飼い慣らされた動物ではなく、あくまで 自然の中で野生動物といかにカンケイを築くかという、より未来志向のソフトでした。

フィンフィンという感情を持つ生き物が登場します。
これなんか、ホントは現代のロボット開発の先をゆく発想なんですね。
そんな仕事をしていたのに、ロボット業界の皆さんはよくおわかりではない様子。
きっと、それがロボットらしくないという理由で、あまりカンケイないとみなされてい るのでしょう。  
結局、いまロボットに求められているものは、見た眼の"ロボットらしさ"なんです。 
二本脚で立って歩こうが、家の中をクンクンとかぎまわろうが、この"ロボットらしさ" を失ってはダメ。
たとえば身体は、どこかギクシャクと機械めいていなければいけないし、顔だって、本当の動物や人間そっくりではいけない。
あの『鉄腕アトム』ですら、最初は柔らかい人工皮膚を持って、髪の毛をなびかせたどこから見ても"少年"らしいルックスだったのですよ。洋服だって、ちゃんと着てるし。
それが、いつしか継ぎ目入りの金属ボディを持った裸の人形のようになってしまったのは、作者の怠慢ではなくて、多数の読者の気持ちの方向でもあったわけです。
きっと本当のロボット開発は、多数の期待とはまた違ったカタチと方向で行なわれるのでしょう。
もし、人間の格好をして、人間の代わりにパソコン打つロボットなんか座っていたら、「あなた何なさってんですか?」と思わず聞いちゃいますね。  
ロボットなんだから、キーボード指で打つなよ、って。  
直接デジタルなデータで処理しろよ。  
便利さを追及するなら、人間や生き物のカタチにこだわってもしょうがないではありませんか。    

だいたいロボットの研究には人間の研究が不可欠、といいますが、人間を真剣に研究するには人間のことばかり考えていたのではダメで、ヒト様が如何にこの世界とカンケイを 結んでいるか、そこのところを知らなければイミない。
そこのところが、全然研究されていないのが実情です。  
キレやすい子供が増えた、といわれて久しいわりには、それをどうすれば良いか、決定的な解決策は何も出てこない。
子供ばっかり眺めているからナニもわからないので、彼ら がその周囲と如何なるカンケイをもって生きているか、そこをじっくり見て、知らないと。
そんなこともわからないまま、人間的な百万馬力のロボットを誕生させてご覧なさい。
いきなりキレて暴れて、世界は滅びるのですよ。    

ロボットだろうと何だろうと、存在すればそれは立派に地球の一員です。  
作り出された新たな存在が、地球や環境とどうカンケイを築けるか、それが開発者の大きな課題でしょう。  
その上でヒトにどう接することができるか、つまりどうヒトの役に立つかというハナシ じゃありませんか。  
そうしたカンケイの中で自立できるなら、二足歩行でも何でもありで、そうではなくて目先の技術にだけ心を奪われて、環境とも自然とも切り離された孤独な存在としてロボッ トくんを誕生させて人目に晒すなら、そんなの粗大ゴミと同じです。
「神よ、人間はロボットを作るべきか?」なんて自問する暇があったら、自分を含めてよ 自然を見なさいって感じです。

日本人の信仰というか自然に対する思考は元来プリミティブで、仏教神道以前にもともとシャーマニズムが基本で、自然の中で生きるためにアニミズムという発想を抱いた。
それは動物植物、山やら川やら石ころやら、この世界の存在すべてに生命を感じ取り、 それらを敬い、心のカンケイを築いてゆこうという生きる意志だったんですね。
それがいまでも綿々と心の中に息づいている。
だからロボットのような無機物でも心の癒しになる、なんて発想に辿り着くのです。
最近知ったのは、AIBOのような玩具ペットは江戸時代にもあったってこと。
動物の形をした座敷からくり人形がソレ。
でもそんなことをして楽しむのはフェチでもない限り日本人ぐらいじゃないのかな。
そこでロボットはトモダチ、という発想が自然と生まれる。
たとえば欧米では、やっぱりモノはモノ。如何にヒトの姿をしていても、それは道具以上の存在とはみなされない。
だから『スターウォーズ』のロボットたちだって、どうしても召使や奴隷以上の立場は与えてもらえない。
そこで力をこめて『A.I.』なんて映画を作らなければならない。 
日本人にとっては遠のムカシから当たり前の発想なのに。    
そんな日本の特殊な精神性の上に『鉄腕アトム』なんかが築かれているわけです。    

さてそこで、多数の期待(と一部の不安)は、いつ本物の「鉄腕アトム」が誕生するかという話に焦点が集まる。    
ありゃマンガですからね。    
なんて言っても始まらない。    
百万馬力で、心やさしく、人の役に立ち、悪を挫き正義を貫く、そんなロボットがいた らいいなー。
というシンプルな期待は、永遠の英雄願望としていつの世でもみんなの夢で はあります。  
マンガの中ではアトム誕生は2003年となっていますが、特にその年号に根拠はない。 
作者本人だって、何度かその数字をマンガの中で訂正しているし。  
アトムはともかく、いったい皆さんが想うところのロボットというカタチはどうすれば 実現できるのかといえば、リアルなことを言うと、まず現在の研究と技術を統合できるシステムが必要なんですね。  
たとえば「歩く」だけでもひとつの企業の壮大な研究になってしまうほど、タイヘンな分野なのですよ。
「見る」「聞く」「話す」「考える」エトセトラ、すべてが大研究です。
「心」の研究なんて、血の気が引くほど、もおタイヘン。
それらの研究を一度に行うには、巨大な研究機関が必要。
当然、はてのない資金がかかる。  
それこそ国を挙げてやるとか、大企業が社運を賭けて取り組むとか、そうしないと不可能と思いますね。
また、それをやるからには相当優秀なるプロデューサーが必要。
ぼくの知っている範囲では、そんな企業も(そんな国家も)まだ存在しておりません。
だって研究家や技術者は専門職だから、管理職にはなれないもの。
国家的な大事業なら、どうしたってあらゆる知識に長けたクリエーターがいないと。
さもなければ、そうした人々を集めて協力体制を築ける能力を持った人が必要。
それがプロデューサーってもんです。
それ、頼まれたらやるかって?  
とんでもない。  
アタシはただの夢想家ですからね。

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